① 余滴 『はじまり』 

 

マタイ福音書を読み始める人が、最初に目にするのは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。新約聖書の冒頭に関係者以外には興味も関心もない「系図」が長々と書かれているのは驚きです。「系図」というのは、半分ぐらいは推測かでっち上げが多く、その家族や関係者が出自を自慢するためのもので他人さまの系図に関心を持つ人などほとんどいないでしょう。

そんな系図から始まる「マタイによる福音書」をせっかく読み始めてもすぐに飽きてしまい、二度と聖書を手に取らなくなる人も結構多いのです。書物というのは最初の一行が大切なのに、「読んでもらわなくてもよい」といった風情で、まるで玄関前に『躓きの石』を置いているようなものです。

それに、「アブラハムの子ダビデの子」と言われても、どこの誰だか知らない人が多い日本では、聞いたことのない名前が延々と続くのを見るだけで、「もう結構」という気分になってしまいます。

聖書を読みたいと考えている人には「マタイによる福音書から読み始めるのはやめなさい」と言いたくもなるのです。なんでマタイ福音書は「系図」をもって始めているのか?きっとなにかの意図があるのでしょうね。まずはこの疑問から始めましょう。

 

(マタイによる福音書1117節)

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。