余滴37.「アップ」

教会のホームページに礼拝説教をアップしました。だれでも聴くことができるのが利点ですが、だれが聞いているか分からないのが不安でもあります。

早速、ホームページで自身の説教を聞いてみました。率直なところ「老化と劣化」が進んでいる、と痛感しました。言葉にキレがない、転開にシャープさがない、テーマに焦点がない、だから結論がしまらない、「ナイナイづくし」というのが感想です。

親しい友人が私の説教を「胸元に鋭く食い込んでくるシュートのようだ」と評したことがありましたが、いまは「打者の手前で外にはずれ、ボールになっていく緩いカーブ」という感じです。アップしたことを後悔したのですが、でもひとりでも聞いてくれる人があるなら、と気を取り直しました。

「他人の噺を聞いて、これはヘタだと思ったら、自分と同程度だと思え。自分と同じぐらいだと感じたら、相手の方がずっとうまく、こいつはウマイと思った時は、足元にも及ばない」 円生だか、志ん生だか忘れましたが、時々思い出します。

説教に「ウマイ,ヘタ」の基準はないとしても、聴く人の胸に迫るような説教を、と願っています。とはいえ、いまさら力んでみてもデッドボール(死球)になるのが落ちでしょう。

「自然体、自然体」、結局そこに落ち着きました。

 

              マタイによる福音書1218

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。