41.「父は?」

「わたしの母とはだれか、わたしの兄弟とはだれか」(1248) ここでは「わたしの父」が登場しません。多分、イエスの父であるヨセフはすでに亡くなっていたのでしょう。それとは別に、最初の頃の教会の状況が背景にあると考えられます。

イエスの死後、エルサレムで12弟子たちを中心に最初の教会が始まります。使徒言行録には「12弟子たちは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(114)とあり、イエスの肉親たちがすでに12弟子たちと同格の存在のように見做されていたことが分かります。

事実、エルサレムの教会はその後12弟子よりイエスの兄弟であるヤコブが中心となって行きます。いわば、イエスの肉親たちがイエスの後継者として重んじられていくのです。後にイエスの「母マリア」への崇拝の芽が生まれ始めているのです。

マタイ福音書は、こうした教会の身内意識が強まって行くことに対して、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、母なのである」と、天の父の御心を行う人こそが、神の家族であることを示します。肉親という人間ではなく、「天の父の御心」が教会の中心なのです。これを誤ると教会は人間を土台とした身内的集団と化していくのです

 

 

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。