19. 余滴 『祈る、祈られる』

 

最初の祈りは母教会の中学生会の修養会に参加した時でした。夜、みんなで丸くなって祈ることになりました。初めてのことでなにを、どう祈ってよいかわからないまま、「神さま、はじめまして!」と言ったとたん、まわりでドット笑いが起きました。あとはどう祈ったかは覚えていません。その時から人前で祈ることが苦手になりました。

牧師になり人の前で祈る機会が増えました。「祈ってください」と求められることも多くなりました。しかし、どこか祈る言葉の空疎さを感じてきました。

「あなたが祈る時は、奥まったあなたの部屋に入って戸を閉め、隠れたところを見ておられるあなたの父に祈りなさい」

祈りは「隠れたところ」から始まることに気づかされました。気が楽になりました。隠れたところを見ておられる神に対して、口に出しても、口に出さなくても、祈りができることを知りました。

「祈ること」より、「祈られることの大切さ」を実感してきました。どれだけ人のために祈っているかより、どれだけ多くの人々から祈られているか、「牧師名利」を味わってきました。

最期の祈りは、どのような祈りになるのか・・・楽しみでもあり、不安でもあります。

「神様、あとはヨロシク!」かも。

 

マタイによる福音書6913節)

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。