24.余滴  「権威」

 

権威とは「ずば抜けた実力の累積によって支えられた、他を威圧し、追随せしめる人が漂わせる雰囲気」と「新明解国語辞典」にはあります。

イエスの「山上の説教」を聞いた人々は「その教えに非常に驚いた。権威ある者として教えになったからである」(729

当時、「権威ある者」と呼ばれたのは律法学者たちでした。律法に精通し、人々を威圧し、その教えに追随せしめる権限を持った人々であり、律法の権威を笠に着た「権威主義者」たちのことだったのです。

しかしイエスの教えは、律法という権威を盾にしたものではありませんでした。「権威」という言葉は、もともと「本質から出る」という意味です。イエスの言葉は彼自身の本質から発せられたものだったのです。イエスご自身の生き方が言葉となったのです。だからその教えは聞く者を揺り動かし、変えていく力となったのです。権威ある者とはそのような人のことです。

「言葉は出来事となる」 これが聖書の理解です。神の言葉を語る説教者は、この問いに恐れおののきます。聖書の言葉をただ振りかざしているだけではないのか、語っている説教が人々の心を揺り動かし、生き方を変えていく力を伴なっているのか。いや、語る言葉を自分自身が行っているのか、牧師の生き方が問われているのです。でも、それができないのが現実です。

せめて「権威を漂わせる雰囲気」ぐらいは、と思ったりもするのですが。

 (マタイによる福音書726節)

 

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。