「さ迷う」

100匹の羊の内の1匹がいなくなり、羊飼いは99匹を山に残してさがしに出かけます。有名な「いなくなった1匹の羊」のたとえ話です。これはマタイとルカの両方にありますが、細かい点ではいくつか違いがあります。たとえば、マタイは「迷いでた羊」(711)とあり、ルカでは「見失った羊」(1514)となっています。

マタイの「迷い出た羊」という表現には、羊の方に迷いでた責任があるようなニュアンスです。一方、ルカの「失った羊」という言葉は「打ちのめされたとか、破壊された羊」(本田哲郎訳)と言うことで、当時の社会の差別的な状況を背景としているとみられます。

言葉を変えて言えば、マタイは教会的な視点、すなわち教会や信仰生活から迷い出た人々のことを意味し、ルカは社会的に見捨てられた当時の人々、具体的にはここでは徴税人や罪人を指し、その人々が悔い改めることによって天国に迎えられるというメッセージと言えましょう。

『教会』という言葉は福音書ではマタイにしかないもので、マタイでは教会(信仰生活)からさ迷い出た人々を探し求め、彼らを見出す教会の働きを訴えようとしているのでしょう。

讃美歌247の「檻をはなれ こころのまま さまよう羊と われはなりぬ 親にさかろう 子のごとくに 恵を忘れて 家を捨てぬ」 信仰の迷いの中にある者としては反省を迫られるものでありますが、教会を「檻」とたとえる感覚には、教会中心主義と迷える信仰者への否定があり、個人的にはあまり共感のできない讃美歌です。

同じたとえ話でも、ルカのような「見失われていた羊を肩に担いで家に連れ帰る羊飼い」の姿のほうが、イエスの姿により近い気がします。

 

それは別として、二つの福音書の表現や状況を理解することで、伝えたい内容が異なっていることを示している一例でしょう。聖書を学ぶ時、聖書のこうした多様さを発見する楽しさがあります。

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。