40.「外に立つ」

「イエスが群衆に話しておられる時、その母と兄弟たちが、話したいことがあって『外に立って』いた」(1246) この「外に立つ」という言葉はエクスタシーの語源で、もともとは「外にある」とか、「外に出る」という意味です。

マルコ福音書では母や兄弟たちが、イエスが「気が変になった(エクスタシー)」として取り押さえるためにやってきた、と書かれています。イエスの母や兄弟たちにとってイエスは「外に出て行ってしまった(気が変になった)」人だと見做していたのです。そのイエスを彼らは「わたしの息子、わたしの兄弟」という肉親関係に引き戻そうとしたのです。それが本来の正常な人間関係であり、社会の姿であると。

このように人間の関係は常に「わたし」を中心に作られます。「わたしの親、わたしの兄弟、わたしの友人、わたしの同胞」、そうでない人は「わたしの外にいる人」であり、「気が変になった人」と見られるのです。

しかし、イエスは「だれでも、私の天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と、この「わたし中心」を打ち破ります。そして「わたし」ではなく、「天の父のみ心」が中心となり、天の父のみ心に従うものは、だれでも兄弟、姉妹、そして母となるのです。

 

最近、アメリカファーストを主張し、イスラムの人々を排除するトランプ大統領は「わたしの意志」はファーストでしょうが、「天の父のみ心」の外に立とうとしているのでしょう。

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。