「疑う」

 

「しかし、疑う者もいた」(マタイ2817

 

 復活のキリストに会うために山に登った11人の弟子たちの中に、なお疑う者がいたとマタイは書いています。この「疑う」という言葉は、「数字の2」の文字を動詞形にしたもので、もともとは二つの間を行ったり来たり迷うという意味です。

 

信仰というのは「迷わないで信じ切る」のが理想かもしれませんが、実際にはそうではありません。迷いつつ信じる、信じつつ迷うというのが正直な姿でしょう。イエスご自身もゲッセマネの祈りにおいて、「主よ、み心のままにしてください」と、祈られました。これは信頼しつつ、同時に迷いつつの叫びだったといえるでしょう。

 

聖公会やカトリックの教会堂の中には必ず洗礼盤が置かれています。礼拝堂の入り口のすぐわきに置かれている教会もありました。「なぜ入り口近くに洗礼盤がおかれているのか?」と聞いたところ、礼拝に来るたびに「私は洗礼を受けた」ことを確認するためだと、いう答えでした。最近、プロテスタントの教会でも礼拝堂の中に、聖餐台とならべて洗礼盤を設置しているところも出てきました。洗礼と聖餐という二大礼典への意味付けを現わそうとしているのでしょう。

 

一週間の生活の中で、信仰と疑いとの間をさ迷いながら主の日に神の前に出る時、私たちを支えてくれるものは、キリスト名によって洗礼を受けた事実と主の聖餐に与る恵みなのです。

疑い迷うことが罪なのではありません。神の恵みに頼らないで生きることが罪なのです。

 

 

 

 

 

大都会の小さな教会

 目白通りを一本入った閑静な住宅地に、芝生の生い茂った暖かい教会があります。

 信仰に導かれて長い間この教会を支えて来られた年配の方々、またその方たちを心のよりどころとする若い仲間たち。ここには明るい笑顔に包まれた「神の家族」があります。

「家庭的なぬくもりを感じますね」と、新しく来られた方々からよく言われます。

 これからもこの地域に根ざした、愛と希望に満ちた教会形成に励んで参ります。

 

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」<マタイ18:20>

 

どうぞどなたでもご自由に教会をお訪ねください。